この平和そうな一日は、誰もが救われた幸せな世界だろうか?[262/1000]

まだうまく言葉にならないけれども、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟(上)」(新潮文庫)、イワンが弟のアリョーシャに語る、自作の叙事詩の一部を引用したい。

以下の叙事詩では、かつてキリストの信仰に生きた大審問官の老人が、復活したキリストを投獄し、自身の信仰に対する苦悩をぶつけている。

 

お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天井のパンを地上のパンと比較できるだろうか?(中略)天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、いったいどうなる?

 

人間という不幸な生き物にとって、生れたときから身にそなわっている自由という贈り物を少しでも早く譲り渡せるような相手を見つけることくらい、やりきれぬ苦労はないのだ。だが、人間の自由を支配するのは、人間の良心を安らかにしてやれる者だけだ。パンといっしょにお前には、明白な旗印が与えられることになっていた。パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンより明白なものはないからな。

 

人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。お前に惹かれ、魅せられた人間が自由にあとにつづくよう、お前は人間の自由な愛を望んだ。昔からの確固たる掟に代って、人間はそれ以来、自分の前にお前の姿を指針と仰ぐだけで、何が善であり何が悪であるかを、自由な心でみずから決めなければならなくなったのだ。だが、選択の自由などという恐ろしい重荷に押しつぶされたなら、人間はお前の姿もお前の真理も、ついにはしりぞけ、反駁するようにさえなってしまうことを、お前は考えてもみなかったのか?

 

お前は十字架から下りなかった。お前が下りなかったのは、またしても奇蹟によって人間を奴隷にしたくなかったからだし、奇蹟による信仰ではなく、自由な信仰を望んだからだ。お前が渇望していたのは、自由な愛であって、永遠の恐怖を与えた偉大な力に対する囚人の奴隷的な歓喜ではなかった。だが、ここでもお前は人間をあまりにも高く評価しすぎたのだ。

 

われわれはもはやお前にではなく、彼(悪魔)についているのだ、これがわれわれの秘密だ。

 

われわれは彼らに罪を犯すことさえ許してやる。彼らは弱く、無力だから、罪を犯すことを許してやったというので、われわれを子供のように慕うことだろう。われわれは、どんな罪でもわれわれの許しを得てなされたのであれば償われる、と言ってやるつもりだ。彼らを愛していればこそ、罪を犯すのを許してやるのだし、その罪に対する罰は、当然われわれがひっかぶるのだ。

 

そして、すべての人間が幸福になるのだ。それというのも、われわれだけが、秘密を守ってゆくわれわれだけが不幸になるだろうからな。何十億もの幸福な幼な子と、善悪の認識という呪いをわが身に背負い込んだ何十万の受難者とができるわけだ。(中略)彼らの幸福のために彼らの罪をかぶってやったわれわれが、お前の前に立ちはだかって、言うのだ。《できるものなら、そんな勇気があるのなら、われわれを裁いてみよ》とな。

 

完全に、神は失われたのか。完全に、世界は悪魔に支配されたのか。

“地上のパンを与えれば、人間はひれ伏す”、まさにこれは、保障や、権利や、給料や、休みを声高に叫んで、待遇がよければ従順になる今日と同じである。もはや、天上のパンを欲する人間は稀で、地上のパンに関心は集まる。パンで腹は満ちても、今度は人よりも多くのパンを求め、大きくて美味いパンを求める。「人はパンのみにて生きるにあらず」というキリストの言葉は虚しく、「人はパンがすべてである」と言わんばかりである。

 

人間から罪の意識が消え始めたとき、最初はそれを背負う人間がいた。この叙事詩は史実ではないけれど、「われわれはもはやお前にではなく、彼(悪魔)についているのだ」という言葉のように、悪魔につくことの罪の意識は持っていたに違いない。時が経つごとに、悪魔につくことの罪の責務さえ、悪魔に委ねられたように思う。そうして今日は、完全に悪魔が支配した。経済のため、人のためなら、核の力さえ利用する。

 

こういうことを口にすると、自分がとんでもないことを言っているんじゃないかと、恐ろしくなる。私の世界の見え方は、リアリストとは程遠く、きっと歪んでいるに違いない。今日、日本を見てみれば、飢えることはなく、仕事もあって、爆弾が降ってくることもなく、人々は娯楽を楽しみ、幸せそうに暮らしている。この世界が悪魔に支配されているなどと口にすれば、私こそ悪魔に支配されているんじゃないかと、そんな考えに襲われる。

でも本当のところ、どうなんだろう?当たり前のように始まろうとしている、この平和そうな一日は、誰もが救われた幸せな世界だろうか?神は失われて、悪魔が支配しているなど、歪んだ錯覚にすぎないのだろうか。

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