処世術という名の自涜 -生存を肯定し、存在を軽蔑する。

おお友よ。君の存在は己の井戸から桶いっぱいの哀しみを汲み上げる。たちまち己は、これまで見過ごしていた醜悪な事柄に目を瞑ることが難しくなる。

己はこう思う。哀しみは世界の印象を情緒的に歪めるのではない。むしろ己と世界の関係をより純粋なものに近づけ、いっそう真実に近い様相を与えるのだ。

 

この純粋さの前では、人間社会に適応するための擬態、すなわち「処世術」を用いることができなくなる。処世術は巧みに世渡りをする知識や技術だと広く認識されるが、これは本質ではない。

姿を持たぬものが姿を持たざるを得ないこと。言葉にならぬものが言葉へ堕ちざるを得ないこと。魂が肉体という檻、あるいは社会という枠組みに収まろうとする際に生じる原理的な歪み。これが処世術の根底にある。

 

我々が処世術を用いるとき、”純”なものの上から”不純”を纏い、その粒度を社会のそれと混ぜ合わすことで、自己と世界との間に層を形成している。

軽薄な挨拶を交わし、他人に調子を合わせ、心情とは異なる表情を選び取る。あえて自らを汚す。蔑む。冒涜する。天敵に食われぬよう泥をかぶる。内なるものをそのまま差し出さぬよう、無意識に自分を守っている。

 

これから東京で生活していくにはだね、コンチワァ、という軽薄きわまる挨拶が平気で出来るようでなければ、とても駄目だね。(中略)もしもだね、コンチワァを軽く言えなかったら、あとは、道が三つしか無いんだ。一つは帰農だ、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ

太宰治,「斜陽」

 

純を守るため、不純を纏う。大きな聖性を守るため、小さな涜聖を引き受ける。純粋に死ぬ弱さはなく、不純に生き通す強さもない。生存を肯定し、存在を軽蔑する。そのあいだで、私は引き裂かれる。

 

素戔嗚尊は強いのではない。あまりにも純粋すぎたのだ。世界と折り合うことも、擬態することも知らない。その代わり、誰よりも大きな哀しみを抱えて世界を揺るがした。

だが人間がそれをなぞっても、世界が揺らぐことはない。ただ己が、世界から落ちこぼれる。神話の轟きは東京には響かない。

人間はどこまでいけるのか。今日に至っては世を捨てた坊さんさえも生臭い。

 

帰農も、自殺も、女のヒモになる勇気さえない。この不条理な歪みを抱えて、免罪符を握ったまま泥の中をいく。魂を引き裂き、己を汚して、なお生きる。

それが神ではない。人間に残された残酷な聖域か。