埼玉県大宮市のとある公園で、朝を迎えた。
綺麗な空だった。
お皿を拭く仕事がなくなって、ちょっぴり寂しい思いをしていた私だったけれど、それに追い打ちをかけるように、ブログの来訪者が半数近くまで減っていることを知った。
どうやら5日程前に、Googleアルゴリズムに変化があって、多くの記事が検索結果に上位表示されなくなったことが原因らしい。
読者あってこそのブログだ。率直に悲しい。
けれど、Googleに嫌われようが、これまで綴ってきた言葉が消えるわけじゃない。
この1年間で、感じてきたこと、学んできたことは、自分の魂に確かにある。
直接テントに会いに来てくれる人や、泊まりに来てくれる人も現れた。
大事なことは、アクセスの「数」ではない。
日々、魂を成長させるために生きることであり、人格を磨くことだ。
そして夢と愛の交差点に生きることだ。
つい見えているものに翻弄されてしまう。
翻弄されて、心が揺らぐときこそ、目に見えないものの価値を大切にしたい。
お金がたくさんあるだとか、肩書がたくさんあるだとか、おとなは「わあ、すごい!」って驚くかもしれない。
けれど、そこで得られる安心感は、どこか虚無的だ。
本物の安心感は、人に伝播するものだと思う。
何もないようにみえる人間から、幸せそうに微笑みかけてもらえたとき、私は大きな安心感をおぼえる。
そんな人に伝播するような安心感は、目に見えないものの価値を信じられる人間からしか生まれないのものだと思う。
このブログを開設して2年、自分を大切に生きたい人が帰ってこられる場所にしたい、と思い書き続けてきた。
果たしてこの願いは、どれほど叶っているのだろう。
派手さに惑わされない強い人間になろう。
質素だろうが貧しかろうが、心が美しいと感じる生き方ができる人間になろう。
人はたくさんの小言を並べるけれど、言葉の根っこを辿れば、私たちが叫びたいことなんて、1つしかない。
それは「私はここにいる」ということ。私はここにいる、あなたもここにいる、私たちは確かにここにいる。
そう思える場所があるかぎり、人は真っすぐ生きられる。
私はそんな場所をつくりたい— とむ(テント生活7カ月目) (@tomtombread) January 10, 2020
1 死ぬときに、人生で1番のコーヒーが飲みたい
氷点下で、寝袋生活することにも慣れてきた。
「冬はさすがに、屋内で寝るよね…?」と周りから散々言われていたので、「本当に大丈夫なのか…?」と内心自分でも不安だった。
けど、やってみると案外すんなりできてしまうものだ。
こんなサバイバルみたいな生活を半年も続けている私だけれど、本音を言えば、温かい家でゆっくりと過ごしたい。
私はアウトドア派ではなく、インドア派だ。
1日中室内で過ごすことは、まったく苦ではないし、これまでも休日はそう過ごすことを好んできた。
たまに、どうしてこんな苦しい生活をしているのだろう、と思う時がある。
過去に色々と理由を考えてきたけれど、その答えをシンプルに表現すればこうなる。
『美味しいコーヒーが飲みたいから』
シチュエーションはこうだ!
静かな森に建てられた、小さな木の家にいる。
暖炉にパチパチと燃える薪の音を聞きながら、ロッキングチェアにゆったりと腰かけて、静かに本を読んでいる。
炎の温かさを正面に感じながら、何十回と繰り返し読んできた、ボロボロの古典に思索を巡らせていると、ほんのりと香ばしい香りが漂ってくる。
ほどなくして、最愛のパートナーが、温かい珈琲と手作りのクッキーを木のトレーに載せて運んでくる。
本を脇に置いて、窓の外を眺めると、あたり一面が雪で真っ白に染まっていることに気づく。
ぼんやりと雪を眺めて、家のなかった若かりし頃を思い出す。
そういえば、凍えながら森で鍋を食べたなぁ。
あんな白い雪の上に、マットと寝袋だけで寝たよなぁ。
そんな風に思いを馳せながら、熱々の珈琲を一口すする。
「・・・」
1年を精一杯生きれた者にとって、年末の乾杯は清々しいものになる。
一方で、1年を中途半端に生きた者にとっては、年末の乾杯はどこかモヤモヤが残る。
生涯で最高に美味いコーヒーが飲めるのは、人生を生き尽くせたときだと思う。
それは、自分に幾度と打ち克った末に口にする「勝利の美酒」のようなものだ。
私はインドアが好きだけれど、地球を味わい尽せていなければ、外の世界が気になってソワソワしてしまう。
遠回りに見えるかもしれないけれど、静かに本に読み耽るためには、外で思いっきり暴れることが必要だと感じる。
私は上がったり下がったりする人間だから、これからの人生、順調に右肩上がりに生きることなんて期待できない。
きっと幾度と谷を経験するだろうし、這い上がることが難しいような絶望も味わうかもしれない。
けど谷の底で死ぬのは悔しいよ。
死ぬときは、人生のピークでいたい。
2 とむに、会いに来てください!
仕事がなくなってから、特にすることがない。
結果、空を見上げる時間が増えた。歩きながら、原付を運転しながら、外に座りながら、「綺麗な空だな~」って。
正直に言えば、こんなゆっくりの生活は、どうも1日を生き抜いた感じがしない。
空を見上げることは好きだけれど、全力疾走して、息を切らしながら、地面にぶっ倒れるように、空を仰ぎたい。
オーストラリア横断開始まで、あと1か月。
時間を見つけて、外でお話を聞くことにしました。
移動しながら、駅とか、公園で。
とりあえず、1/16,1/17の夜は、名古屋界隈に出没します。(多分、大曽根かな)
詳しい場所は、Twitterに書くと思うので、よかったら、フォローしてね。
「いつ死んでもいい」と思えたとき、それは魂が生きることに満足した瞬間なのだと思う。
自分の願望に誠実になり、命が持ちうる力をありったけ燃やし続けた末に辿り着ける境地。
迷いを抱えたときは、どっちの道を選べば死んでもいいと思えるか、
これが「死ぬために生きる」ということだと思う。
— とむ(テント生活7カ月目) (@tomtombread) December 9, 2019
※テントに泊まってみたい!森の中でお話がしたい!という方も、2月頭くらいまで歓迎しています。
行きたい!!!絶対行きたい!!!という方は、どうぞLINEくださいませ。
あわせて読みたい一人になりたいときは、心が正直になりたいとき。
では、名古屋でお会いできること、楽しみにしています!
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