望まない生き方を深淵より見つめることしかできない魂は、尊厳を踏みにじられているような恥辱であった。恥辱を恥辱だと感じさせず、恥や卑しさも肯定してしまう風潮が、魂が救済されにくくなる理由を作り出している。
命をもって今日生きることに、魂は歓喜したがっている。https://t.co/pHmChrqyGz— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) February 3, 2023
見返りを求め、求められる関係に、血の通った温かさを感じる。むしろそんな関係にしか価値はないとさえ、今は思う。
友が必死に生きる背中に鼓舞されるなら、それに応えてこちらも必死に生きて鼓舞し返さなければならない。逆にこちらが相手の健闘を祈って与えるものがあるのなら、相手にも応えさせなければならない。この束縛を不自由だと思うなら、どこまでいっても希薄な関係しか生まれない。互いへの要求は束縛を生み、束縛は責任を生み、責任は人を行動に駆り立て、行動は人を強くする。束縛のない関係は自由なのではなく、希薄なのである。
これまで出会ってきた人間には借りをつくってばかりだった。その中でも、一人の友に対する借りは計り知れない。いつも言葉で伝えるより、背中で見せる男だった。鬱で生きる気力を失っている時も、彼は私に背中を見せ続けた。弱っていた当時は、情けなくも、見せられる彼の生き様と自分を比較し、苦しい思いをしつづけた。これが関係性の束縛がもつ厳しさの一面だった。
彼はへこたれる私に同情していたと思うが、同時に俺と同じように立ち上がって背中を見せろと要求し続けていた(のだと思う)。私は苦しくて要求から目を背け続けたが、これは関係を破壊する自分勝手な行いだった。見返りが実行されなければ関係は希薄になっていく。彼との関係もいつ壊れてもおかしくなかった。見返りが得られなければ、関係を見捨て、見捨てられることは現にたくさん起こってきたからだ。それでも彼はしぶとく背中を見せ続けた。見返りがなくとも、見返りを求め続けた。そこに借りが増えるばかりだった。なぜ見捨てないのか彼に問うたことがあった。彼は損得で付き合っているわけではないと言った。この言葉は深く刺さった。
友情や愛がなければ、見返りを求めることはできない。束縛を嫌って自由を好めば、誰とも深い関係は築けない。それは自由ではなく希薄である。束縛の中にしか愛も友情もない。今はそれを強く信じる。信じるだけじゃなく体験する。愛も友情も血の通いである。苦痛と引き換えに生まれるものである。キリストですら、私のために十字架を背負えと言った。大きな愛の見返りとして、家族を犠牲にすることよりも私を信じろといった。与えられたら返す。与えたら返させる。大きな愛の代わりに大きな束縛である。
あなたに負けないように。あなたに恩を返せるように。あなたに笑ってもらえるように。あなたに認められるように。これも束縛である。そう思うと、全身がみるみる勇気で満たされるのは、我々は関係の中に生きていて、決して一人じゃないということを自覚できるからだ。プレッシャーは生まれるが、勇気も生まれるのだ。
ここでもそうだ。もしこれを読む人が、言葉を与えてもらったと感ずるなら、その見返りに、力強い生き方を要求する。お金も感謝の言葉もいらない。心を悲しませることも、怒らせることも、恐れさせることも、要求しない。力強く生きること、勇気をもって生きること、信念を持って生きることを、要求する。
俺に負けないように生きてみろ。俺も負けないように生きる。
精神修養 #139 (2h/286h)
困っている時に力になることは直接的な恩返しとなる。直接的な恩返しができない場合、相手から受けとった真心を自分の精神に宿し、その精神をもって勇敢に生きることが間接的な恩返しに繋がっていくように思う。人から受け取った恩は心を温めるが、心が温まって終わりでは薄情となる。人から授かった温もりを精神に宿し、正義を実行するために使っていく。あくまで自分は代理人である。これが共に生きるということではないか。
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