お付き合いしていた女性とお別れをした。悲しくも、私が愛を知るのはいつも喪失の後である。存在を失い、孤独に立ち返り、はじめて相手の尊さに気づくことができる。十年前と変わらず傲慢であった。傲慢とは、理想が愛を覆い隠す状態をいう。理想という「刀」を相手に向け、存在を裁こうとする心の態度をいう。対象を失い、理想が霧消し、愛があらわになった状態を喪失という。実存の触感を取り戻す、遅すぎた目覚めである。
「憎むものは己の影」と言うように、他者を裁いたり軽蔑したりするのは、自分自身にその要素があるからに他ならない。他者を裁くことで「自分は違う」と妄信し、己の弱さに飲まれることから逃れようとする。高い理想を追い求める者ほど陥る罠かもしれない。ただし、相手を斬らねば己の弱さを絶ち斬れぬというのは、怠慢が生み出した誤解である。
斬るべき対象は常に自己である。ここに絶対の孤独がある。私は大きな誤解をした。たしかに「葉隠」は武士道を貫徹するための高慢を”是”とした。だが、高慢とは他者を見下す軽蔑ではなく、己を鍛える軽蔑である必要があった。斬るべき対象は常に自己へ回帰する。他者に投影を認めれば己を斬る。他人に期待をすれば己を斬る。それでも他を軽蔑することがあれば、そっと静かに距離を置き自分の道を歩むしかない。
まるで愛がないじゃないかと問うこともあった。他者に介入し、お節介を焼くことが愛じゃないのかと。たとえば、家族にはずっと健康でいてほしいからこそ、食習慣について諫言することがある。これは相手を思えばこその愛にちがいない。だが、こうした諫言が真に人に響くとすれば、相手に一太刀浴びせたときではなく、己の良心を斬った結果として勇気をもって相手に踏み込んだときではなかったか。
相手を斬らねば己の弱さを絶ち斬れぬのではない。己を斬らぬから相手を斬ろうとするのである。男というもの、剣を常に自己鍛錬に用いる。断じて人を裁くものではなければ、女を斬るなど問題外である。自己の迷いを斬り、投影を斬り、時にはこれまで積み上げてきた思想を斬る(これは前回の記事にて少し触れた)。強くなれば刀を抜かずして勝てる。これが最上。俺たちが目指すのはここである。
時に、とんでもないストイシズムだと思われる。実際、彼女にもそんなことを言われた。だが実際は、斬れば斬るほど身体は身軽となり自由となる。幸福を蔑ろにしているのでもなければ、苦行の生涯におけるマゾヒストになろうとしているのでもない。もっと大きく、透明なもの、人生を貫徹する偉大な感動を志している。小さな幸福を斬り大きな幸せを掴む。ストイシズムの正体は、自由を懇願する魂の叫びである。
一つ体験がある。私は今年の春から、甘いもの(厳密には小麦と植物油と乳製品も)は金輪際一切食わぬと決めすべてを断ち切った。あれが食べたいこれが食べたいと、定期的な発作に襲われることはなくなり、出来事に一喜一憂して心を煩わせることも皆無となり、常に心身穏やか、何があっても眠ってしまえば、翌日にはすこぶる元気である。現世を厭い、孤独に死んでいくと思われた私が、女性と付き合うまでの健全さを取り戻したのも、食による快復が大きい。(破局に至った理由もまた、私の食の狭さが一因にあるようだったがこの話は控えておく。)
かつて私は、直情的で思慮分別を弁えぬ「感情」というものに醜悪な傲慢さをみた。かくして「感情」の地位を失墜させ、「精神」や「魂」の地位を高めるように、千日間手記を綴ってきた。女と別れ、森で一人号泣した私は、出会いと恋、別離のもたらす偉大な感情が、人生の花であることを再確認した。今一度私は、「感情」の地位を人生の先頭に立たせるつもりだ。今度は、精神と魂が心髄となる「聖なる感情」である。ツァラトゥストラが、”神聖な否定”によっておのれの求めた砂漠の支配者になれと言うように、私は全人生を情動の力によって突き進んでいく覚悟である。
泣くのは大いに結構。恥じるのも結構。だが、嘆いている暇は一つもない。人生は有限だ。悲しみも痛みも苦しみも全部を抱きしめて歩みをすすめていこう。この不条理な世の中をとことん楽しもう。




