少なからず、生きていれば誰かを嫌いになることがある。
けれど、そんなときこそ
- 赦してやること
- (可能であれば)好きになってやること
が、自分を大切にする手がかりなのだ、と最近私は感じる。
私はかつて、特定の人というより、人と関わること自体に辟易し、「誰とも関わりをもちたくない」と一人を好んだ時期があった。
しかし、その根底には「本当は人が好きだ」「本当は誰かと笑い合いたい」という、矛盾する想いが隠れていた。
そのときに、
- 「嫌い」というのは、本当は「好き」なのだ。
- ただ傷つくことを恐れ、感情をひっくり返しにせざるを得なかったのだ
ということを学んだ。
私たちは、理由もなく誰かを嫌うということはなく、必ず「傷ついた経験」や「勇気くじかれた経験」のトリガーを持つ。
先日、BOOKOFFで手に取った本から、「人を嫌うこと」に付随して、さらなる気づきを得たので、ここで共有したいと思う。
端的に言うと、人を嫌いになる心理をしっかり理解すれば、自分を赦し、自分をもっと好きになることができる。
1 人を嫌いになる心理の意味
人を嫌うとき、同時に自分も嫌っている。
人は人を嫌うことを通して、盲目的に自己否定をしている。
人を嫌いになったときは、ものすごく不快な気持ちになる。
嫌いな人と顔を合わすことだけで、気分が下がるし、中にはぶん殴りたくなるという人もいるだろう。
私自身、その不快感の正体は、「嫌いな人に反発した心が暴れているからだ」と思っていた。
けれど、実際は違うことに気づいた。
人を嫌うことで、心が不快感を覚えるのは、
人を嫌うのと同時に、「自分を嫌い、それにより自分の心が傷ついているから」なのだ。
人を嫌うとき、そこには必ず『嫌いになる要素』がある。
- 礼儀がない
- 時間にルーズ
- 仕事ができない
- 自分勝手
- 品のない言動をする
私たちは、こんな要素を「自分とは無縁なものだ」と考える。
けれども、これらに怒りを覚えるならば、実は無縁とは言い切れない。
- 嫌いになるとは、「赦せない」ということであり、
- 「赦せない」のは、他人だけではなく自分に対してもあてはまるから。
- つまり、人を嫌うことを通じて、「そんな自分が存在することを否定している」
からだ。
番長
このように思うかもしれないが、実際は
- 条件付きで(たまたま上手くいっている)自分を赦しているだけで、
- 潜伏している(できないときの)自分は否定している
のだ。
無条件に自分を赦せる状態を『愛のある状態』とするならば、条件付きで赦す自分は『愛から離れている』といえる。
つまり、「人を嫌えば嫌うほど、自分も嫌いになる」というジレンマ(?)を私たち人間は抱えている。
1つ例をあげてみよう。
職場に、思いやりのない女がいるとする。
挨拶をしても返ってくることはなく、言葉遣いも乱暴、態度も横柄で、見下した態度で接してくる。
「思いやりは持つべきだ」と観念を持つ人は、
- 「なんて横柄な人なんでしょう!」
- 「あんな思いやりのない人、見てるだけでムカツク!」
と彼女を見るなり、赦せなくなって嫌いになる。
このとき、
- 「私は絶対に思いやりを大事にする」
と表層意識では考えているけれど、潜在意識では
- 「思いやりのない自分なんてダメだ」
と自分を縛りつけているのだ。
ただ、これを逆手にとれば、実は自分を簡単に好きになることだってできる。
このブログでは、過去の傷を癒すこと、自己受容の方法なども書いてきたけれど、違う切り口として有効かもしれない。
2 人を嫌いになる心理を利用して自分を赦す
人を嫌えば嫌うほど、自分も嫌いになる。
人を赦せば赦すほど、自分も赦せる。
「人を嫌えば嫌うほど、自分も嫌いになる」のだから、反対のことをすれば逆の効果がある。
つまり、人を赦せば赦すほど、自分を「縛り」から解放することができるし、人を好きになってしまえば、その分自分も好きになるということだ。
考えてみれば、納得のいくことが多い。
自分のことが好きな人間、いわゆる自己肯定感の高い人間ほど、人に寛容であり、人が好きである。
「自分のことが好きだから、人のことが好きになれる….」と一般的には考えられがちだけれど、もしかしたら逆なのかもしれない。
人を赦そうとしているから、自分も赦せるのだし、人を好きになる努力をしているからこそ、自分を好きでいられる。
先ほどの思いやりのない女の例で考えてみる。
挨拶をしても返ってくることはなく、言葉遣いも乱暴、態度も横柄で、見下した態度で接してくる。
乱暴な言葉遣いをされたとしても、
- 「乱暴な言葉だな….,、まあけれどそれでもいっか!」
と赦してみる。
すると、反発して怒り狂っていたときよりも、不快感を感じない事に気づけるだろう。
感覚に敏感な人は、自分の中の何かが解けるのを感じられるはずだ。
最初は赦すことに抵抗を感じるかもしれない。
自分の正義が強ければ強いほど、なおさらのことだ。
けれど、心配には及ばない。
自分が赦せない相手を赦しても、自分の正義が失われることは、決してない。
否定感を緩めることと、自分の大切にしたい価値を持ち続けることは別物だからだ。
だから、ぜひ嫌いな相手を前にしたら、それをチャンスだと捉えて、何かを赦してあげてみてほしい。
そうすれば、凝り固まった正義ではなく、柔軟で愛のある正義が持てるようになるだろうから。
3 人を嫌いになる心理を利用して自分を好きになる
人を好きになればなるほど、自分も好きになる。
嫌いな人に歩み寄るには、傷つく覚悟がいる。
嫌いな人を赦せば自分も赦せるように、嫌いな人を好きになれば自分も好きになることができる。
だが、そこには1枚の壁がある。
冒頭で、「人が嫌い」の心理の裏には、もともとは「人が好き」な心理があったと言った。
それが傷つけられたり、勇気くじかれたことがきっかけで、「嫌い」を選択しただけだと。
1枚の壁というのは、好きになるには、自分から再び、歩み寄ることが必要だということ。
つまり『再び傷つくかもしれない覚悟がいる』ということだ。
けど、これは誰しもが既に経験していることだと私は思う。
喧嘩した後の仲直りなんてまさにそうではないだろうか。
- 好きな人と些細なことで喧嘩する
- 傷ついて「どうして分かってくれないの」と嫌いになる
- けれど勇気を持って歩み寄ってみる
- 仲直りして、より一層好きになる
仲直りした後、心が充足するのは、「関係性を取り繕えた」だけでなく、「相手を赦したことで、自分をより一層好きになれたから」だ。
そんな成功体験を既に私たちは持っている。
そう考えれば、機を見て嫌いな人にも歩み寄れそうな気がしてこないだろうか。
勇気を持って、歩み寄り相手を好きになれば、自分の中で何かが確実に変わる。
人を嫌いになること(=自分を嫌いでいること)のしがらみを解きほぐして、柔軟な正義を持ちたいものだ。
4 まとめ
ここでお伝えしたかったことは、以下の3つ。
- 人を嫌うとき、同時に自分も嫌っている。人は人を嫌うことを通して、盲目的に自己否定をしている。
- 人を嫌えば嫌うほど、自分も嫌いになる。人を赦せば赦すほど、自分も赦せる。
- 人を好きになるには、再び傷つくかもしれない覚悟と勇気がいる。けれど、そこに歩み寄れば何かが変わる。
ぜひ日常で体感してみて!
ではっ!
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