嵐が去り、秋の風が吹き始めた。夏のひと仕事を終えた人間を労う慰安の季節だ。もしくは、街の喧噪から旅人を誘い出し、文化に親しみを抱かせてくれる、哀愁の季節でもある。寒さに思わず身を縮めてしまう早朝の空気は霊妙さを帯びはじめ、今年もあの気高き季節がすぐそこまで近づいていることを身をもって感じている。
一方で、家のない野良犬には、生存の恐怖が襲いかかる。クマが冬眠に備えて木の実をたくさん食べるように、私もまた、冬をしのぎ温かく乗り越えるために、家をつくらなければならない。だが、思ったよりも木の伐採や抜根に時間がかかってしまったこと、怪我のために作業できなかったこと、畑の仕事が思ったよりも忙しくなってしまったことの要因が重なり、まだ家づくりの整地にも入れていない。あと一週間で10月となるというのに、さてどうなることだろう。
森の家づくりと畑の仕事を天秤にかければ、当然、優先されるべきは畑の仕事である。自分のためにしかならないことと、社会の役に立つことの価値は比べるまでもない。いくら高い理想を掲げていても、国のため、社会のためにならない以上は、所詮その程度である。反対に、国のため、社会のために実働している仕事には、個人の領域を超えた大きな価値がある。
どんな仕事だってかまわない。そこに身を投げ入れれば、人間の土台は作られていくし、そうして救われる人間は、これまで自分の感情を大事にしすぎたあまり、自ら土台を転覆させてしまっていたことに気づくはずだ。
やりたいことをやるという信条は変わらない。ただ、全部やるのだ。仕事もちゃんとして、やりたいこともして。そうして順序を守って価値を積み上げていけば、ささいな自分事にも幾分か価値は生れよう。さあ、無邪気に働くのだ。
2024.9.25
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