人権、人権というが、資本主義とは、金のもとに姿形を変えた奴隷制度ではないか。[791/1000]

炎天下の畑に焼かれていると頭が朦朧としてくる。数十メートルあろう畝を行ったり来たりしながら、苗を黙々と定植していると、気づけば倒れそうになっていた。俺たちはもっと太陽を信頼してもいい。そう言葉にしたものの、熱渦の淵に身を捧げるに、見合う男になりきれていなかったということだ。日射病は誰の責任か。無論、己である。何もかも自己責任。斃れれば、不覚を取ったと恥じるまで。今日、管理責任を問われる社会であるが、まちがっても勘違いしてはならない。人権に溺れて生命の高貴を踏みにじるなど、あってはならないし、それは己を貶める行為である。

 

倒れそうになりながら畑仕事をしていると、奴隷のような気持ちになってくる。金をもらう以上は、命令のもとに絶対服従する。人権、人権というが、資本主義とは、金のもとに姿形を変えた奴隷制度ではないか。雇用主は金を払う以上、自分は楽をして大変な仕事を労働者にまわす。「奴隷の高貴は反抗だ」とはニーチェの言葉であったか。だが、雇用主に楯突くことが高貴ではない。雇用主もまた傀儡である。俺たちの主は金。金によって生活者は苦労し、数知れない涙を流してきた。おお、金なんぞいらねえ、そんなものなくたってどうってことねえ、そう逞しく生きられたら、きっとそれが俺たちの高貴だろう。

そんなことを考えながら、畑仕事をやり遂げた。もらったキュウリに塩をぶっかけて丸かじりしたら、相変わらず最高に美味かった。

 

2024.8.19

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