君子は中庸を旨とする。小人は極端に走る。[762/1000]

君子は中庸し、小人は中庸に反す。

君子の中庸たるや、君子よく時中す。

小人の中庸たるや、小人よく忌憚する無きなり、と。

孔子

畑で働いて数日。土砂ぶりのおかげで、車がよくぬかるみにはまる。ぬかるみにはまると、畑の男達は結集して、皆で車を押す。畑を車で走るには技術がいる。なるべく畝の部分に車輪をつけて走る。畝間におちるときは、勢いを殺さないよう一気に駆け抜ける。

 

ぬかるみに浸っている時間が長引けば、しだいに勇気を失う。鬱や無気力にとらわれ働けなくなった人間が、いきなり働こうとしても無理が生じる。最初はとても小さな一歩から。まず窓をあける。それから風呂に入る。白湯を飲む。本を少しだけ読む。次に日光を浴びる。体操をする。掃除をする。花を植えてみる。すると、少しずつ力が蘇ってくる。力は雪だるまのようにだんだん膨れ上がる。前にできなかったことが、気づけば自然とできるようになっている。そうして馬力が出てきたら、一気に畝間を駆け抜ける。ここでは思い切りがいる。仕事を始めるため、社会復帰するため、最後の最後は思い切りがいる。そしてついに、車輪が動き出す。十分にエンジンがかかり出せば、もう憂いはない。

 

私は極端を好んだ。そうして身を潰したことは多い。ヒッチハイクでオーストラリア横断を試みた。成功したが、反動で2年近く家から出られなくなった。極端な行いはいつも私心から生まれた。人に認められたいとか、成功したいとか、そんなものが極端な行いと、玉砕覚悟を生み出した。君子は中庸を好むと聞いて耳が痛い。実際、森で隠者じみた生活する私は、いまだ極端な生き方の最中にあるといえる。だが、そのとおりなのだと身をもって分かる。国のため、家族のため、人様のために生きる人間は、極端な行いによって玉砕するわけにはいかない。野望に酔い痴れるのは結構。だが、潰れてしまえば、仕えるべきもの、守るべきもののために働けなくなる。これは結果、無責任なのである。

 

私心を抱えぬ人間は、社会の表層に現れにくい。立派な人間は、堅実に所帯を持ち、生活を耕し、地道に汗を流して働いている。田舎の畑にはそんな人達がいる。堅実をつまらぬと一笑する風潮もなくはない。だが、彼らの幸福は外野と比べものにならぬほど深く実体がある。

理想なき人生は低俗。堅実な人生は退屈。若気の至りも次の段階へ移った。堅実な若者は物足りない。だが、歳を重ねて浮つくのもみっともない。中庸とはなんだ。私は中庸を思う。

 

2024.7.20

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