今日死ぬかもしれない。と自らの有限性を意識しはじめた途端、それまで倦怠に静まり返っていた人生が、再び若々しい躍動の声をあげることがある。これは人生の背後にある広大な暗黒を感ずることによって、日々われわれを導く主体が「生」から「死」へと切り替わる瞬間である。
人間一生、誠にわずかなものなり。好いたことをすべし。人生とは暗黒に瞬く一閃の光である。こうした観念は、われわれの心に大いなる勇気を植えつける。成功するにしろ失敗するにしろ、いつか最後は死ぬ。ならば、思い切り好きなことをやってみよう。胸のうちで恋慕するあの女性に、想いの丈を打ち明けてみよう。まるで深い湖底からはじめて水面に顔を出し、肺が裂けるほどに「生」を吸い込んだかのように、人生は立体感を取り戻し、その儚さゆえに狂おしいほど愛おしく映り始める。
ただし、こうしたニヒリズムは、それを支えるだけの十分な土壌がなくては自己破壊的に転じうる。たとえば、オーストラリアをヒッチハイクで果敢に横断している青年がいたとする。周囲には勇気ある行動に見えるかもしれないが、その内実はただの「捨て身」かもしれない。事実、青年は旅を終えたあと身体を壊し、精神を病んだ。ニヒリズムは人生から重たい重力を取除いてくれる代わりに、往々にして自己の扱いをも軽ろんじさせる。
死を見つめることで生から解放された気になっても、それ自体が人間を充足させることはない。そこに立脚するだけの土壌がなければ、どこかに空虚さが残る。前に進んでいるようで堕ちる。愛を言葉にしてエゴに染まる。自らを大切にするようで枯れていく。
私はこうした半生を省みて、人間を支えうる「土壌」を問いつづけている。いつかは死ぬという観念を抱きながらも、なお誠実であろうとする意志。安易な身投げを許さず、祖先を尊び身体を養生させる力。それはニヒリズムが産み落とす冷たい情熱を吸収し、健気な新芽として再生させる大地のようなものだ。
かつて、その答えを信仰に求めたことがあった。人間の魂をおびやかす空虚さを支えるものは人間を超越した高次の妙力である。論理としては筋が通っている。だが考えてもみれば、生まれてこの方、私は一度だって自らのうちに信仰心を認めたことがあっただろうか。真面目に、誠実に、ひたむきに行ってきたことは、魂の断行ではなく、ただの身投げではなかったか。
そうだとも、私は知っている。神社に参拝もすれば、お守りだって買う。だがこれまでの人生で一度として、境内の掃除を買って出たり、お百度参りに身を投じたことはない。大雪の日、寒空の下で凍えるお地蔵様に笠を被せてやることも、その頭に積もる雪を払ってやることさえ念頭に置いたことはない。苦しいことは巧妙に避け、頭の中はいつだってこの身を守ることばかりだ。そのくせいっちょ前に御利益にだけは縋りつこうとしてきた。
私は自らの信仰心を信じることができない。形式は必ずしも重要ではないと言うがそんなものは偽善だ。形式こそ信仰の礎である。かといって、実際に徳行を積んだとしてもなお偽善だ。結局心の濁りを見透かしている以上、いかなる救いからも見放されている。
信仰ではない。だとすれば、己を支えうる土壌とは何か?今の私が自らのうちに信頼できるのは、自身の肉体に刻まれていることだけである。オーストラリアの横断、ゴールドコーストから立ち昇る朝陽、ただそこに在り沈黙する海原。生かされもせず、殺されもしない。一貫して人間に対して無関心を貫く世界。人間を導くこともなければ、罰する意志もない。「今日死ぬかもしれない」と思い立つことに、何の救いもありはしない。そして朝陽は、永遠にとどまることなく空へ昇っていく。
私は人生の深淵を直視する痛みに耐えかねて、「意味」の上に生きようとする人間を数多く知っている。民族や国家は「意味」を創造し、継承することによって繁栄してきたにちがいない。人々は社会のなかで同じ「意味」を共有することによって安寧を求めてきた。
それでも私は世界から与えられた”意味”よりも、自己の肉体に刻まれた”無意味”さにより親しみを抱く。私を絶望させたあの虚無は、私に救いを与えようとする意味よりもずっと真実味がある。今日、世界がどれほど巧妙な物語で人々を魅了しようとも、あの海原にむき出しにされた私の魂を癒やすことはない。
ならば、いかなる精神でこの”無意味”を引き受けるか。それが、私に残された最も高貴な自由である。私が養生を心がけるのは、単に生きながらえるためではない。この頑丈な肉体をもって戦うためである。意味を喪ったこの荒野に立ち続けるためである。絶望に打ちひしがれるのではない。絶望を「武装」せよ。この精神の反抗こそが絶望を踏み越える力となるのだ。その先に土壌がある。信仰なき人間にとっての最後の土壌がある。私はこの土壌に可憐な花を見たい。




