人生は一行のボオドレエルにも若かない[642/1000]

一〇 蓋

 

暑い国、寒い国、海の上、陸の上、

何処にいようと、

キリストの下僕だろうと、ヴィナスの下臣だろうと、

むさくるしい乞食だろうと、緋衣の富豪だろうと、

 

都会人だろうと、田舎ものだろうと、浮浪者だろうと、家居の士だろうと、

小さな脳味噌が、機敏だろうと、のろまだろうと、

どこにいても、人間め、神秘の恐怖に圧され

わななく眼で上を見上げることだけは確だ。

 

上とは天だ!人間を窒息させる墓穴の壁だ、

三文オペラの燈火のともる天井だ、

道化役者が血まみれの地べたを踏んでの登場だ、

 

蕩児の怖れ、狂信の出家の希望、

天とはまさに、微々たる然も広大な

「人類」が湯煎されてる、大鍋の蓋さ。

 

ボードレール「悪の華」

 

「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という芥川龍之介の言葉がある。私もまた、大文学の一行を前にすると、自分の人生の値打ちなどこれっぽっちもないだろうという感覚になる。これまでに何百年も時を旅し、これからも何百年と時を旅するであろう魂の発露を前にすれば、私の人生から紡ぎ出される詩など、せいぜい私の生きているうちにしか、宙を飛ぶことはできない。

虚無感覚ではあるが、同時にまた、それだけ価値があるものと出会えた歓喜でもある。いまでは、詩や文学のない人生は考えられないし、詩や文学をなしに自己の価値を妄信していた頃と比べると、当時のほうがよほど虚無的であったとさえ思うのである。

 

今日は権利や平等が尊重される。生まれながらにして(ボードレールの詩の言葉を借りるなら)下に下に押しやられることはなく、人生の価値を口にしないことが暗黙の了解となった。人は生まれながらに人権を持ち、皆が価値ある人生をおくっている幻想を生きている。

私はここのところずっと、値打ちのあるものと、値打ちもないものを考えるようになった。自分の人生を省みれば、何の値打ちもないものも少なくない。精神を築きあげ、結果を勝ち取ったものは値打ちがあったと思えるし、無力の奴隷になった放埓な日々などは、同情の余地もなく、何の値打ちもなかったと思う。

 

私の座右書であるトーマス・マンの「魔の山」においても、ペーペルコルンという人物が語っていた。思えば、私が人生における価値について考え始めるようになったのはこのときである。ペーペルコルンはこう言った。感情の力が衰え、人生からの要求に応えることができなくなることは生命の屈辱である。人生とは女であり、女の要求に応えることのできない男には何の同情もないばかりか、何の値打ちもないのである。

 

繰り返しになるが、私は人生の無価値を謳いたいわけではない。天才に劣等感を抱く、凡人の虚無を謳いわけでもない。無価値を認めることは、価値を認めることである。どんな自分も価値があると自己欺瞞に陥るのではなく、自分なりの分を弁えて自分なりに価値のある人生に向かっていくことである。私はそのために、力を賛美しつづける。祈りつづける。人間の力を、生命の力を。無力の根を張る悪魔から、守られることを。

 

2024.3.22

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です