煎餅食うなら米を食え。「炒り玄米」最強のお八つ[983/1000]

われわれは自分の体が本当に欲しているものを、的確に言い当てることができるだろうか。精神的な事柄から、物質的な事柄まで。たとえば、アイスクリームが食べたいと思うとき、体は蓄熱された熱を放出したいだけではなかろうか。もしくは、焦燥する心が、ゆとりを欲しているだけではなかろうか。アイスクリームを食べる代わりに、冷たい水をしっかり飲んでみる、もしくは逆に、ぬるま湯をゆっくり飲んでみる。すると思いの外、体はしっかり吸収して、心身ともに充足してしまうことはよく起こりうる。

 

ほんとうに体が欲しているものを、よく見極めようと、この数年あれこれ模索してきた。アイスが食べたいときは、熱を冷却したいのか、それとも糖を欲しているのか、乳成分が不足しているか、はたまた脂肪が足りぬのか、裏側の成分表示を見ながら、分解して考えてみるのは日常茶飯事だった。

畑で働いた一時期は、無性に煎餅が食べたくなることがあった。大して金もない私は、いつものように成分を分解して考え、煎餅を買うくらいなら米を食えと自分に言い聞かせていた。だが、米を食っても煎餅に求めていたものを充足することができなかった。あのバリバリ噛む歯ごたえは、ふっくらと炊かれた米では間に合わせることができなかった。

 

一日一食の私は、体力の補充にお八つをいただく。煎餅に求めていたものは、食事としての米ではなく、インスタントな補給、それも心を退屈から解放させる、ささやかな愉しみとしてのお八つであった。ちょうど「炒り玄米」なるものを知ったのは数日前である。家が完成したことをきっかけに、これまでの悪癖を見直そうと思った。お八つというと、糖分が多すぎたり精白されていたり、心を愉しませる一方で身体を傷つけるものが多い。ちゃんとした精神がないと、欲望の名のもとに悪癖と化すのが常である。かりんとうを食していた私は、小麦粉食うならパンを食えと、食パンに蜜を垂らして食っていたが、”完成された慣習ではない”と心のどこかで納得できない部分があった。

 

さて、炒り玄米だ。玄米をそのまま炒るだけの簡単な調理である。五分から十分も炒ればポップコーンのように小さく爆ぜ踊る。香ばしい色と香りが立てばすぐに食べることができる。塩を振ってもいいし、カレー粉をまぶしても良い。バターを落として醤油で混ぜてもいい。煎餅のような、あられのような、コーンのような、歯ごたえ抜群の最強のお八つができる。無論、市販されている”製品”とちがい、食物繊維が漲っているので、食後の不足感はいっさいなく、当然だるさもなく、体中に力が溢れてくる。断じて無力ではない。人間をただしく、力へと導く、堂々たるお八つをここに見つけたのである。

 

2025.2.28