知らないおっちゃん達と女性のグループに紛れて、沢登りという、猛烈にファンキーな体験をした。
山に流れる沢や滝を、登っていくというものだ。とにかくこれが、型破りで、カッコ良くて、興奮しっぱなしだった。
こんな沢を登っていくのだけれど、足だけでは登れないから、両手を使う。岩の突起をうまく使いながら、全身の細かな筋肉を総動員させて登っていく。一切の手加減なし。文字どおり、全身全霊だ。
水に濡れていて滑るから、細心の注意を払わなければならない。高いところから落ちれば、骨折するだろうし、顔から落ちれば歯が折れてしまう。(私は何度か事故で歯を折ったことがあるので、こんな時、つい歯を折ることを想像してしまう)
ここ最近の私は、ジョギング感覚で山に登っていたのだけれど、いつも登山道を歩くことしかしていなかった。森の木々や小鳥のさえずりは好きだったのだけれど、「歩く」という行為に対しては若干の退屈さをおぼえていたのだと、沢登りをして気がついた。
沢登りは四肢を使う。全身の筋肉を余すことなく、総動員させる。どこに足をかけるのか、どの岩を掴むのか、知恵も総動員させる。自力の限界を超えるところは、人の力を借りる。
持ち得るすべてを、余すことなく自然にぶつけているという感覚。この感覚から私は、自然への畏敬の念を覚えた。
全身全霊でぶつかってもケガをするかもしれない。下手したら死ぬかもしれない。本来、自然とはそれほどに荒々しく、人間の力なんぞちっぽけなものにすぎない。
一緒に登っていたおっちゃんは、75歳だった。話を聞くと登山歴10年ほどで、ほぼ毎日山登りしているという。血色がよくて、よく笑う、皺だらけのおっちゃんだった。
なぜ、登山道を歩かず、沢登りをするかと聞いてみると、普通に山を登っていても飽きちまうからだ、と言っていた。
言葉が凄く腑に落ちた。私は退屈していた。飽きていた。それは傷つくことから遠ざかることばかり考えるようになっていたからだ。そして沢登りは、猛烈にファンキーだった。命をある程度危険に晒さないと、血がフツフツと煮えたぎるような面白さは湧き上がってこないのだろうと思った。
私たちは、すべてを出し切りたいのだと思う。
今日という1日の中で、エネルギーを持て余すことなく、すべて出し切って生きることが、与えられた命への感謝だと感じている。逆に、怠惰に過ごして、エネルギーを持て余すことが、与えられた命への冒涜だと感じている。
だから頑張った後は、気分がいいし、頑張れなかったときほど、自分を責めてしまう。
気分がいいときは、根底では、命を大切にできたことに感謝している。自分を責めるときは、命を大切にできなかったことに罪悪感をおぼえている。
力を持て余すことなく使おう。何でもいい。
働くことでも、勉強することでも、誰かのために尽くすことでも。もし何もなければ、土砂降りの雨の中を、走ることでもいい。内側の力を絞り出すようにすればいい。
私たちは、すべてを出し切りたい。
そう感じた朝。
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