世界に反抗して生きるということ―『シーシュポスの神話』をめぐって

世界に失望した悲しみを、まあ人間こんなものだと、ある種の諦観のうちに慰めるとする。無数の慰みは人間本来に備わる最も気高い心、素戔嗚尊を本源とする憤怒の涙を合理性のなかに追いやったように思う。私は心の深奥に閉ざさざるをえなかった古びた悲しみを根底から揺り動かし、永く人類を見守ってきた太陽の光を真正面から注いでやりたいと願ってこの文章を書くことにする。

 

時代錯誤と言われて仕方がない。私は人前でスマートフォンを触ることに羞恥をおぼえる人間である。街に出れば人々が一様に画面に眼を落としている。それは当然の日常だという。当然。ほんとうにそうだろうか。まるで何処か遠い世界へ無言の列をなして行進しているような、あの異様さに苦しめられるのは私だけだろうか。美意識か、それとも誇りか。何か清冽なものが私をその列に加わらせまいと制止する。

この感覚は名もない一本の木や、ただ空が空として在るのを見上げている時ほどかえって鮮明になる。私は身体感覚や時間感覚を喪失することに冒涜にも似た強烈な痛みをおぼえるのだ。

 

身体感覚、これは人間を生きる上で一つの鍵となる言葉である。かつて、ある空想的なアニメーションで脳だけが異様に発達した未来の人類の姿を見たことがある。重たい胴体は肥大化した頭蓋をかろうじて支え、使われなくなった手足は細く退化しもはや自分を運ぶことすら難しくなった。知性だけが極端に進化し、身体は反比例して著しく退化したような寓話だった。

私が拠り所とする身体感覚は、この像とは全く逆である。人間の脳髄は手足をよく使うほど、それも自然に即したやり方であるほど根の深くから根源的に強化される。反対に自然から乖離するほど、たとえばボタンを押せば自動でパンが出てきて食事をまかなえてしまうような不自然な利便に甘んじるほど、かえって脳髄は薄く、散漫になっていく。

 

ちょうどそれは「安逸」と呼ばれるものである。薄弱した脳髄は失望に直面したとき、抗うことの痛みを避け、抗えないことの恥を忘却し、甘んじた快適さのなかで、違和を感じぬよう自らの感情を摩耗させていく。生まれ持った自己固有の美的感性は拒絶され、一方で世界から突き付けられる不条理も拒絶され、人間本来に備わる最も気高い心は、社会が提供する幻影に慰みを得ると同時に音もなく沈没してゆく。

 

私にはこの欺瞞は耐えがたいものであった。少年時代のあの限られた小さな世界が教えてくれたのは、世界が未知のまま圧倒的な力で屹立しているという事実、その世界に立ちはだかる孤絶した自己、それでいて宇宙を構成する力だけが存在し、その力の化身として生命が自由に躍動しているそれだけの世界だった。

ちょうどそれは、親を喪い帰る家を失った少年が、地を激しく叩く狂暴な雨風のただなかで、ただ立ち尽くすほかないその姿に似ている。彼の小さな身体では到底世界と分かち合えず、また敵うこともなく、世界は慰みも理解の手も差し伸べてはくれぬ。痛みは痛みとして存在を許され、悲しみは悲しみのまま風に吹かれ。皮膚は濡れ、鼓動は胸を圧し、第三者が介入することのないこの静寂のなかで、人間は残酷なほどの無関心さで「ただ生きよ」と命じられている。われわれはその要求にただ応じるだけである。この圧倒的な身体感覚には一切の偽りがない。

 

私は素戔嗚尊に生来の身体感覚から漲る生命と、耐えきれぬほど世界を愛してしまった人間の誠を感じる。失望の底にあってなお、身体を偽り、幸福を演じる隙をゆるさないその男らしさが、「反抗」という形をとって世界に立ち上がる。秩序を裏切ることでも、他者を断罪することでもない。ただひたすら自己の生に対する忠誠によって、世界に真正面からぶつかっている。まさにそれが、アルベール・カミュのいう”幸福なシーシュポス”ではないかと私は思う。人間の尊厳に支えられた悲しみを礎に、生命は緊張し、世界に反抗し、地上で太陽を浴びている。依然と救われなさを抱えている。それでもなお、生きていくのだ。この世界を愛して生きていくのだ。