私は自身の経験を顧みても、人間にとってたいせつな情愛は、「現実」のなかでしか生まれえないように思う。たとえば、私たちは親兄弟を選ばずにこの世に生まれてくる。一昔前までは、親父の方針に従わないバカ息子が勘当されることもあったが、大半は、親子の摩擦を抱えながらも、言葉になりえぬほどの愛情に支えられて成長し、人生のフェーズを進めていく。こうした親子の愛情は、容易く言葉にできるものではなく、アメリカ人のように「アイラブユー」と言葉にすることもなければ、ついには墓参りの時になって、ようやく涙ながら本心を打ち明けられるものかもしれない。
今日、俗にいう”パートナーシップ”なるものは、こうした羞恥心が失われたところに西洋式に発展したものと見える。「価値観の合うこと」が美徳とされ、「コミュニケーション」が善とされた。その結果、言葉にできぬような深い情愛までもが、白日のもとにさらされる。
「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」
という世阿弥の言葉がある。秘することによって二人の胸の内に咲いた花は、言葉になった途端に花ではなくなってしまう。日本人には、相手への想いを胸の内に秘さずにはいられぬ羞恥心や、相手の胸のうちに秘められた情感を掴み取る感性がある。ここに男女の恋愛の奥ゆかしさや、情緒的文化があった。
正直私には、パートナーシップという概念が、本当に日本人に合っているのか、日本人を幸せにするのか疑問に思うところがある。なるほど。アメリカの老父婦をロールモデルにしたような、先進的な日本人夫婦を私は知っている。夫は妻に「愛してるよ」と伝えハグをする。毎日のようにフェイスブックに流れる家庭の近況は、幸福に満ちているように見える。
だが、そこに放たれる鼻を覆いたくなるほどのエゴイズムの匂いや、見ているこっちが恥ずかしくなってしまうのはどういうことだろう。二十歳の私は、アメリカ人が同じようにするのを目の当たりにして、嫉妬するほど美しいと感じたことがある。そこにはキリストの愛に支えられた文化と国民性があった。
ならば、日本人が日本人でなくなったらどうだろう。「神話を失った民族は100年で滅びる」というトインビーの有名な言葉がある。戦争に敗れて80年、現に日本でパートナーシップが幅を利かせるのはその証左かもしれない。
日本人特有の羞恥心や、相手の心情を汲む気遣いがなくなれば、男女の関係はずっとフラットで分かりやすく、容易になる。昭和の青春ドラマで見るような、公然といちゃつくカップルを見て「キャー、やだわ。ハレンチね。」などと顔を赤らめる女子学生はもういない。精神の性別は失われ、肉体の性別だけがそこに残る。羞恥心を見事にあらわした「ハレンチ」という言葉ももはや死語だ。
国籍もない。文化もない。しかし、幸福な人間たちがそこにいるのかもしれない。
時代はくだり、神は死んだ。二人の男女を支えた、仲人(なこうど)のような仲裁者も存在しない。統率者を失った二つのエゴイズムは、右輪と左輪となって、対等に利害調整をしながら、バランスをとって前進している。こうしたパートナーシップの形は、現代人なりの愛の希求かもしれぬ。対話によって関係を深めることには、個の時代においてそれなりの正当性があるように見える。
それでも私は清冽な真理を欲している。真に人を愛するとは何か。日本人としての幸福を諦めたくはない。
ここでようやく、冒頭に言葉に立ち返る。ここからが私の本旨である。人間にとってたいせつな情愛は「現実」のなかでしか生まれえぬとはじめに述べた。この「現実」とはなにか。
現実とは、すなわち、宿命に立つことである。男女関係でいうなら、見つかりもせぬ”運命の相手”を探すことではなく、目の前にいる相手のうちに宿命を見出すことである。
仮に結婚していたとしても、互いの価値観を語り合っているうちは、変わらず「運命の相手」を探しているにすぎぬ。価値観が完璧に合う異性など夢物語であるから、その相手は必ず「幻滅」をたどる。
恋愛ごっこならそれでおしまいでいい。だが、男女の道はむしろ幻滅から始まる。幻滅こそ現実。この現実が動かぬものとして引き受けられたとき、二人は価値観を話し合うことをやめる。正確には、価値観を語ることもあるかもしれぬが、それは趣味の範疇であって、離別の問題にはならない。
なぜなら、相手の存在を動かぬものとして引き受けた瞬間、相手との相性を測る意味は失われ、それよりも目の前にある圧倒的な現実、そこに向かって二人がどう生きていくかが問題になるからである。
私が働く農家の87歳のおばあちゃんの言葉がある。
「昔は離婚なんて考えられなかったよ。嫌でもそこにいるっていう感じだったからね。」
これが宿命に立つ感覚である。離婚できないことが不自由だと思うのは、自由恋愛に夢を見過ぎた現代人の自惚れにすぎぬ。むしろ宿命を引き受けるということは、目の前に圧倒的な自由が拓けるということだ。幻滅に振り落とされず、現実を直視するには、ある程度の精神力がいる。ゆえに、自立した人間にしか成熟した関係は築けぬ。
最後に私が夢を見た、農村の風景をここに記したい。誰が見ても幸せなこの夫婦は、毎日畑で働いている。職場はユーモアで溢れ、笑いが絶えない。反面、誰もいない畑では労苦をいとわず汗をながしている。その姿は圧倒的に泥くさい現実を負っている。「生活のため」という庶民的な志でも、宿命を引き受けた男女のエゴイズムには、魂が吹き込まれることを私は知った。ゆえに、カッコよく美しい。「生活」という圧倒的な現実が、二人を自由へ、言葉にならぬほどの深い愛へと向かわせる。
ままごとなんてやめようぜ。俺はやはり、この人生から真に価値ある情愛を掴み取りたいのだ。
そのために「現実」という岩を転がす。これが私の幸福論である。




