金のある男はモテる。なぜなら金は、女を惨めな暮らしから救い出すからである。ただし、あくまで「生存」の惨めさからの解放である。「存在」の虚無から救い出すことはない。苦役から解放され、贅沢に身を飾っても、夜の静けさに耐えられるとは限らない。
生に救いを求めるか否か。これが人間と動物の本質的な違いである。動物は生命のまま美しく燃えるが、人間だけが「なぜ生きるのか」という救いを求め、その答えが見つからないことに絶望する。
救いの言葉に信者が集まり、それが商売になるのは、古今東西見られる人類の慣わしである。無論、宗教にかぎったことではない。今日のビジネスからインフルエンサーに至るまで、市場原理は「救済」である。
私を買えば便利になる。私のシステムに乗れば人生は豊かになる。餓え、寒さ、不安定、不幸、退屈、惨めさ、孤独、悲しみ、緊張…金は人間をこうした苦痛から解放する。苦痛から解放された人間は、人生の意味を考える苦痛も先送りする。
私が伝統や家族といった保守的な思想に救いを見出したのは、自由という名の放浪が、実は「空虚」へと続く一本道であったと気づいたからである。オーストラリアをヒッチハイクで横断し、ゴールドコーストから朝日をのぞんだ際、ついに一本道の果てまで来たと自覚した。
しかし今や、「救い」であったはずの保守的思想は、私を縛る「呪縛」へと変貌している。保守的思想の救いは、自分が国の歴史、大きな物語の一部であるという安心感にある。この脆弱な生は、宇宙にポツリと孤立しているのではなく、神を源泉とする大いなる流れの中に存在している。
だが、現実の私は片田舎の農家の奉公人であり、社会的序列の末端に置かれている。日本人という誇り。この精神の貴族性とは対極に、世俗的な身分の卑小さとの乖離に苦悩している。地位や名誉というものに、これほど焦がれる日が来るとは。今の私にはそれがない。秩序を重んじる保守的思想を信奉するがゆえに、その秩序の末端にいる己の卑小さを、自分自身がもっとも蔑んでいる。この自己矛盾こそが、私を縛る呪縛の正体である。
我々が「神」を編み出したのは、救いのためである。だが、ニーチェが言ったように神は死んだ。私が救いと予感した、この保守的思想も、実は既に「神の骸」だったのかもしれない。ああ、何を弱気なことを言っている。己の信仰の貧弱さよ。だが現実、思想がまるで力にならぬ。腹の底から込み上げてこぬのはどうしてだろう。
ニーチェは、精神は三段階に変化すると言った。
一. 駱駝(ラクダ):「汝なすべし」という義務に従い、重い荷物を背負って砂漠を行く。
二. 獅子:「我は欲す」と叫び、既存の価値観(龍)を砂漠で打ち倒す。
三. 幼子:忘却し、新たに肯定する。
かつて自由を求め旅をした私は、獅子のように振る舞っていたが、その内実は「タヌキ」だった。背に負うものはなく、日本人としての誇りも曖昧のまま海外を放浪した。
伝統や文化を重んずる駱駝となったのは二十代を終える頃である。「立派な人間にならねばならぬ」という重荷を負って、底辺まで落ちぶれた自分をはじめて自覚した。
駱駝が獅子に変わる瞬間はいつか。少なくとも、「私はこれほどに耐えている。耐えていれば救われる」と信じつづけているかぎり、私は駱駝のままに違いない。神だ。救いだ。と仰いだものが、実は呪縛ではないかと再び問い始めたのは、私のうちに潜む獅子が、再び爪を立て始めたのではあるまいか。
「人間礼賛」の自由にも救われず、「保守」の秩序にも救われないのだとしたら、いったい「救い」はどこにあるのか?そもそも神亡き世界で人間は耐えられるのか?
もはや、救いを捨てるというのが「救い」なのだろうか。救われないことの絶望を底に据えたまま、救われたいという希望もかなぐり捨てて。人間は、救われきらないまま生きる存在として宿命づけられているのだろうか。だとしたら、人生はまったく不条理な営みである。




