自分を受け入れることが分からないあなたへ。【自己受容の方法】

自己受容が中々うまくいかない人は、受容することの本当の意味を勘違いしているかもしれません。

一般的に、自己受容と聞くと、

  • ありのままの自分を認めること
  • そのままの自分を認めること
  • 自分のすべてにOKを出す

といったことを良く聞きますよね。

 

これはどれも間違っていません。

けれど、「ありのまま」や「そのまま」という言葉の持つ意味合いが広すぎて、表面的な部分で、言葉が一人歩きしていているように感じるのです。

 

自己受容の本当の意味は、自分の優しさに触れることです。

否定的な感情の一番深いところに隠された「本当はこうしたい!」という肯定的な意図に気づいてやることです。

 

人が自分を赦し、受け入れられるのは、誰かの優しさに触れた時だと思っています。

そして自己受容とは、究極『自分の優しさに触れること』だと私は思っています。

 

怒り狂い、悲しみや絶望に沈んでいるときほど、自分の奥底に優しさがあるなんて、信じられませんよね。

心配しなくても、あなた様は優しい人間です。怒りや悲しみも、元を辿れば優しさに行きつくと私は思っています。

 

一番深い部分は、ちゃんと愛で溢れています。それを自分で思い出すことが、自己受容です。

目の前の厳しい現実に順応するために、忘れてしまった(捨てる決意をした)その優しさを、取り戻すことが、自己受容です。

 

この記事が、あなた様の心に潤いを与えるきっかけになることを、祈っております。

 

 

1 自分を受け入れることが分からないときの勘違い

自己受容は、「ありのままでいい」と自分に言い聞かせることではない。

心の一番深くにある気持ちを、ちゃんと汲み取ってやること。

 

自己受容というと、「ありのままでいい」「そのままでいい」といった言葉がよく使われますね。

勘違いされるのは、これらの言葉を呪文のように唱えてしまうことではないでしょうか。

もらとり
番長
ありのままでいい、ありのままでいい、ありのままでいい、ありのままでいい……..

 

え?そうじゃないの?と思った方も多いと思います。

私自身も、このように自分に言い聞かせていたことがありましたが、気持ちはまったく楽になるどころか、むしろ苦しくなっていきました。

 

つまり、こういうことです。

口では「ありのままでいい」と発していても、心が「今の自分はダメだ」と言っているかぎり、自己受容にはならないのです。

むしろ、身体は心の思惑の反対のことを言っていますから、身体と心がバラバラな感覚になって、苦しくなってしまうのですね。

 

1つ私の例を紹介しますね。

かつて教員だった私は、

  • 授業力のない自分
  • 生徒の力になれない自分
  • 業務に忙殺されて、頭がパンクした自分
  • 校務分掌なんてワケわからず、完全に他の先生に頼りっぱなしな自分
  • 疲弊して、生徒に強く当たってしまう自分
  • 愛情が枯渇して、笑顔でいられなくなった自分
  • いつしか生徒のことが考えられなくなった自分

に嫌気がさしていました。

 

当時の私は、「こんなできない自分がいてもいいじゃない。」とポジティブに言い聞かせていましたが、気持ちは改善されるどころか、苦しくなる一方。

「まだ足りないんだ、もっと言わなきゃだめなんだ!」と勘違いした私は、自分自身にさらに繰り返し言い聞かせるようになります。心はまったく別のところにあるのに。

結果、私は身体と心がバラバラとなり、教員をやめてしまいます。

 

こうして客観視すると、バカだなぁ~と思えますが…..

「ありのままの自分でいい」と呪文のように言い聞かせても、一歩間違えれば

辛い心・悲しい心・苦しい心を踏みにじってしまう「自分への暴力」になってしまうのですね。

 

こんな荒技でも乗り越えられる壁はあるかもしれませんが、身体と心がバラバラである状態は、自分の中に一致感がなく、生きている心地も、精力も、わいてこないものです。

では、どうすればいいのか。もうお分かりのとおり、心の気持ちをしっかりとくみ取ってやることです。

 

自己受容の真髄である心の声について、次の項目でしっかり見ていきましょう。

 

2 自分を受け入れることが分からないときは、心の真意をくみ取る

私たちの心は、いつも優しい。私たちの心は、いつもピュアだ。

心の一番深くに眠っている、そんな『純粋な部分』の声を拾い上げることが、自分を受け入れることに繋がる。

 

冒頭でも書きましたが、私たちの心は本来、優しくて、ピュアなものです。

子供を見るとよく分かりますよね。彼らが、純粋で無邪気なのは、まだ「そのまま」だからです。

 

ただ、「そのまま」はピュアであり純粋であるのと同時に、とても傷つきやすいものです。

生きていくうちに、心に傷を負うと、傷つかないように自分の「純粋な部分」を隠すようになります。

それが、自分を受け入れられなくなることの始まりですね。

 

ご察しのとおり、この覆い隠された、純粋な声を拾い上げることが、自分を受け入れることの本質です。

例を見てみましょう!

 

1つ目に、先ほども紹介した教員をやめた私の場合。

授業ができない自分に対して、「そのままの自分でいいじゃん」と言っていましたが、心の純粋な部分にあったのは、

 

愛したい。愛されたい。

 

でした。

ちょっと不思議ですよね。

  • 「もっといい授業がしたい」
  • 「生徒と楽しみたい」
  • 「生徒と学び合いたい」

といった気持ちも隠れていましたが、一番深いところにあった気持ちは「愛したい。愛されたい。」だったのです。

 

例をもう1つ。

毎朝早起きしてランニングをしたいけれど、どうしても怠けてしまって、自己嫌悪してしまう自分がいるとしましょう。

「どうして、私はできないんだろう……」と嘆きながらも、心のピュアな部分では

 

かっこよくなりたい!

かわいくなりたい!

 

がんばりたい!

モテたい!

 

といった、気持ちが隠れているのではないでしょうか。

それにしても、純粋な言葉は響きがいいですね!

 

これを見てもお分かりの通り、

  • 「ランニングをせずに、怠けてしまう自分もOK!」と言うより
  • 「私はただモテたいんだね!!!」

と気づいてあげるほうがより深く自分を受け入れることができるのです。

 

ここまでお読みいただいて、どうですか(^^)

「何となくわかったけれど、私にもできるかな….」と不安になられる方もいるかもしれませんね。

もし「私にもできるかな…」と思われているのなら、少なくとも「私も自分を受け入れたい!」というピュアな気持ちがあるのではないでしょうか。

 

焦る必要はないのでしょう。

自分の深くにある純粋さを大切にする心さえあれば、人はいつでも自分の味方でいられますから。

 

3 自分を受け入れることが分からないときは純粋さを信じる

自分が赦せないとき、本当はただ、自分を赦してやりたいのだ。本当はただ幸せに笑っていたいのだ。

どんな荒々しい言葉も、元を辿れば、優しい善意だ。善意があることを信じるのだ。

 

私は、どんな人間も「いいヤツだ」と思っています。

仏頂面のばあちゃんも、強面の兄ちゃんも、傷つきたくないがために、表に出さないだけで、本当は優しくて、ピュアなんだと信じています。

 

そんな優しさを、「善意」と表現しましたが、分かりやすく言えば、

「本当は〇〇したい」

という無邪気な気持ちのことです。

 

【純粋な言葉たち】

  • 休みたい
  • 遊びたい
  • がんばりたい
  • 叫びたい
  • 踊りたい
  • 笑いたい
  • 幸せになりたい
  • かっこよくなりたい
  • かわいくなりたい
  • モテたい etc.

 

私は、言葉は純粋になればなるほど、短くて、正直な響きを帯びると思っています。

そして、自分の置かれている状況によって、心の真髄にある言葉も変わってきます。

 

教員時代に疲弊していた私は、「本当は休みたい」と思っていましたし、森で1人孤独にテント生活をしていたときは「本当は人と繋がりたい!」と思っていました。

燻っていて中々頑張れないときは、「本当はがんばりたい!」と思っていました。そしていつも、「愛したい、愛されたい」と思っています。

 

「大好き」って言葉も、とても純粋ですよね。

大好きという感情は、大人の打算脳を脇に置いて、子供のように無邪気でなければ、得られないものだと思います。

 

人は究極、「私はここにいる!」って叫びたいだけなんじゃないかと思っています。

誰かにちょっかいをかけたくなるのも、SNSで自分のことを皆に知ってほしいことも、「私はここにいるよ!私を見て!」という純粋な気持ちの表れではないでしょうか。

 

これは少しベクトルが違うけれど、深い悲しみや、怒りを抱えているときは、荒々しい言葉を必要とすることもあると思っています。

「ふざけんな」と言葉を叫んで初めて、「本当は〇〇したい…」とふさぎ込んでいた純粋さが流れ出てくるのだと思います。

 

ここでお伝えしたいことを簡単にまとめますと、

自分の深くにある「純粋さ」を感じてみてほしいということ

純粋さを大切にして、純粋に生きる勇気を持ってほしいということ

です。

 

4 まとめ

ここでのポイントを次の3つにまとめました。

  1. 自己受容は、「ありのままでいい」と自分に言い聞かせることではなく、心の一番深くにある気持ちを、ちゃんと汲み取ってやること。
  2. 心の一番深くに眠っている『純粋な部分』の声を拾い上げることが、自分を受け入れることの本質
  3. どんな自分も元を辿れば、純粋な部分に行きつく。自分の純粋さを大切にすることで、自分と繋がっていられる。

 

最後になりますが、自分の純粋さに生きることは、怖いことです。

そうやって子供の私たちは傷ついてきましたから。

 

けれど、少なくとも私は、純粋さを大切にしようとされる貴方のことが好きですよ。

傷ついたらいつでもまた、帰ってこればいいですから。

 

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4 件のコメント

  • とむさん初めまして。今必死で自分と向き合い感情を書き出しているところです。
    自己受容について質問があります。とむさんが感情を書き出す例としてランニングを頑張ろうと思ってもサボってしまう自分、本当に受け容れるべきは変われないと思っている自分であると…。
    ここで質問です。自分は変われないと思ってるから辛いんだよね…そこに気付いて受け容れたところでランニングができるようになるのでしょうか?実際ランニングが楽しいと思える自分に変われるのでしょうか?
    実は自分も似たようなことで常にモヤモヤしていて辛いです。
    教えてください。

  • さくらさん、はじめまして。
    最初に、記述が不足していたことお詫びさせてください。

    さて、質問にお答えしますと、さくらさんのおっしゃるとおり、「自分が変われない」という気持ちを書き出したところで、「自分は変われない」と思っていては、心は辛いままです。ここが肝ですが、「まだ辛い」ということは、まだ自分を受け入れることができていない、ということです。そのモヤモヤは、導きそのものなので、見過ごさずにいることは、自分を受け入れるにあたり大切なことですね。

    さて、ここからは記事にも修正した点ですが、「自分は変われない」は、まだ純度の高い言葉ではなかったのだと思います。「自分は変われない」のもっと奥に見つめるべき心情があるということですね。

    その先は、人によって違うものだと思います。
    例えば、美容を目的としている方にとっては、「自分は変われない…..けど本当は….綺麗になりたい」という本音があるかもしれません。ここで少し難しいのは、「綺麗になりたい」という本音の奥にも、さらに別の本音があるかもしれない、ということです。

    例えば、母親に可愛がられなかった過去から、「綺麗になりたい」という気持ちを持つようになった場合、本当の気持ちは「ランニングがしたい」でも「綺麗になりたい」でもなく、「母親に愛されたい」になります。もっといえば、愛を感じなかった母親への「ふざけんな!」という怒りかもしれません。その怒りを感じて、悲しみの涙を流すことが、自分を受け入れることになるかもしれません。

    深く入り込むほどに、個人の感覚も細かくなるので、一般化することは難しいのですが、モヤモヤした感覚を頼りにすれば、自分の純粋な部分に触れられると思います。

    私自身、今よりももっと未熟なときに書いた記事でしたので、書き直してみました。
    もし良ければ、また目を通してみてください。

  • とむさんこんにちは、早速返信有難うございました。細かな説明にも感謝です‍♂️
    ん〜やはり難しいです。自分は学校へ行くこと、勉強することがキライです。でも自分が望んでいるのは学校も勉強も辞めることではなく学校も勉強も好きになってそれを楽しむことなんです。じゃあどうしてそれができないのって自分に聞いても学校へ行くのは面倒くさい、勉強が面白くないからとしか答えられなくてそれ以上深い理由なんて見つからないのです。いつもその葛藤の連続で必死で学校に行っています。いつも生き生きと意欲的に勉強している人と自分を比べて自分のダメさ加減に凹み、それでもどうしても勉強が好きになれなくて逃げ続けすごくお恥ずかしい悩みですが、本人はホントきついです。そもそも本音は好きじゃないことを好きになりたいと思っているわけですからとむさんどうしたらいいでしょうかこれって自己受容とはまた問題がズレてますか❓❓❓

  • さくらさん、こんにちは。
    お気持ち、よく分かりました。もしよければ、1つ質問させて下さい。
    さくらさんは、どうして学校も勉強も好きになって楽しみたいのでしょうか?
    キライな学校も勉強も、好きになりたいと思うほどの、強い思いがさくらさんの中にはあるのですよね。
    ここに、さくらさんの純粋なお気持ちが隠れているように思います。
    「どうしてできないの?」ではなく、「どうしてそう思うの?」です。

    生き生きと意欲的に勉強している人も、素敵ですが、僕にはさくらさんは、人間として正直で、自分に対して誠実の方のように思えますよ。学校が嫌い、勉強が嫌いと思っても、決してそれは恥じることではありませんし、むしろそう自分が感じていることを、自分の感性の1つとして認めてやれることは、とても勇気のいることです。
    逃げ逃げなんて、とんでもない。さくらさんは、今ご自身と真正面から向き合おうとされています。
    どうか安心して、さくらさんご自身が本当は何を大切にしたいのか、見つめてみてください。

    また何かあれば、いつでもお返事ください。
    とむ

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